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同窓会会報27号で抄録にした部分の本文
2020.12.17 09:00

古賀直先生を偲んで-2009年7月開催の福岡支部総会パンフレットより-
同窓会会報27号で抄録にした部分の本文

43年目を迎えた教師生活ですぐに思い浮かぶ出来事10

古賀直

  • 1.昭和42年3月下旬、原巳冬校長に呼ばれて初めて附設高校に来た。木造平屋建ての質素な校舎に驚いた。生物準備室はあったが実験室はなかった。体育科の控え室兼用だったので、長らく私が体育科の教師に間違えられる原因の一つがここにあったのかも。
  • 2.サッカーが校技のように生徒たちに親しまれていたので、密かにボールを蹴って練習をした。翌年、校舎が御井キャンパスから野中キャンパスに移転し、次年度に中学校が併設された。高体連は加盟していなかったが中体連には加盟して部活動が始まった。密かにサッカーの練習をしていたことを松山先生は知っていたので、サッカーは校技的な種目なので体育科の教師が顧問になる。君はバレーを見てくれといわれて顧問になった。
  • 3.20回生C組の副担任(主任は野上優先生)になり、2年生から任されたが、不登校の生徒や問題児がいて、鍛われた。若さだけで認められていたような気がする。
  • 4.23回生の1年次の夏のキャンプだったと思うが、「札幌オリンピックの歌」の中に「直ちゃん」を入れて歌ってくれた時は、驚いたと同時に嬉しくもあった。
  • 5.一年間担任をはずれた後に担当したのが25回生である。附設中卒だけのD組と高校からの生徒と附設中卒が混じった3つのクラスがあった。1、2学期の中間考査後の日曜日に近くの山にハイキングに行った。耳納連山縦走、古処山、宝満山、英彦山など、この頃は家内も一緒に生徒との交流を楽しんだ。
  • 6.昭和50年度の大学入試で東大30名合格でサンデー毎日に「青天の霹靂」との見出しで進学校としての全国デビューをした。
  • 7.中学9回生を受け入れた年は、中学生が関西から3名ほど入学するなど、寮生が急増した頃で中学寮の部屋も不足し、急遽若杉寮や重富寮を探すはめになった。彼らが高校3年(31回生)の時はほとんどが下宿に出された。当時の下宿の数は大小合わせて14ほどあった。このころは3月は下宿生の割り振りで大変であった。現在は下宿禁止で寮は空き部屋が沢山ある。時代が変わった。
  • 8.42回生の時、3年での保護者面談は当時も夏休みを含んで行われていた。42回生には沖縄県出身者が13人(自分のC組は7人)いた。たまたま九州高等学校理科教育研究会の大会が沖縄で行われたので、研究会に参加するついでに沖縄の保護者面談を他のクラスの分も引き受けて実施した。なお、現在は中学1年から高校3年まで沖縄県出身者はいない。これも時代の流れでしょうか。
  • 9.平成14年から3学期制が前後期の2期制に変わった。同時にカリキュラムも理科3科目(物理I、化学I、生物I)を全ての生徒が履修できるようになり、中2~高1の3年間に芸術総合選択(音楽I、音楽Ⅱ、美術、書道、木工、陶芸)も設定された。
  • 10.平成17年度から高校で募集する50名が共学になった。現在、高3C(58回生)の担任として9回目の卒業生を出す予定で、C組51名中に15名の女生徒がいる。
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